まず8000時間稽古をしたら
10年以上前の支店次長職の時、4月1日の最初の仕事は毎年決まっていた。本店で入社式を終えた新入職員を支店まで引率して帰るのだ。途中でホテルの喫茶店で軽い顔合わせをする。ある年の女性5人の中に、短大を卒業したKさんがいた。少しおどおどした様子で、うつむいて話し、正直言って“ちゃんと勤まるかな”と心配になった。彼女は、支店からかなり離れた営業所に配属が決まっていた。
それから3年。私がその営業所に出向くと、窓口で男性客が「納得できない」と声を上げて怒りだした。応対に出たKさんは、相手の感情を受け止めながら、きちんと事務の説明をして、最後は笑顔で男性客の納得を得た。周りは当たり前の様子だったが、私だけが彼女の成長ぶりに感激していた。
この「3年間」に私は非常に興味を持っている。比較的大きな組織のビジネスマンから転身した方々の話を聞くと「3年で一つのメドがついた」と話す人が圧倒的に多い。1~2年や5年という話は出ない。また比較的転勤の多い金融業界でもひとつの職場にいるメドを3年としている会社は多い。
落語家の故桂枝雀師匠は、弟子に「まず8000時間稽古をしたら」と話した。1日8時間とすれば、ほぼ3年である。「石の上にも3年」には深いものがあると、今あらためて感じている。学生から社会人への切り替えにも、この程度の時間が必要だと思う。
私自身の経験で言えば、新入職員として支店で3年半過ごした。1年目は、事務を覚え、仕事の全体像を把握するだけで精一杯だった。ところが4年目になると、自分でかなり仕事を回すことができた。先に挙げたKさんも同様だと思う。勉強して身につける知識だけではなく、組織にいること自体も力になる。会社は理性と論理で成立しているように見えるが、実際は多くの不合理なものを抱えており、それは時間をかけて感じとらないと理解できないものだからだ。
組織で働くことは、どんなビジネススクールや資格学校よりも価値がある。特に若い時はそうだ。先輩から納得できない指示を受けたり、自分の存在を否定されることもあるだろう。でも、それも間違いなく社会の一コマである。その中で、働くことの意味を見出していくことが、大人になるということなのではないか。
娘の裕美に「新入社員の時に会社から受け取るのは、給料ではなくて、仕事の経験、知識、人との付き合い方だ。これらが得られない会社は、入社には値しないとお父さんは思う」と話したが、裕美の反応は悪くはなかった。少し安心した。


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